昭和3年の正月を迎えても、テルの心が晴れなかったのは、体の調子がずっと悪いからだった。体の節々が痛くて、歩くのもままならない日々が続いたが、それは夫に性病をうつされたせいだった。宮本の生活態度から、それと分かったものの、そんな恥ずかしいことは誰にも打ち明けられなかった。
それでも普段の暮らしはなんとか維持していたものの、困ったのは房枝のお風呂だった。母親のミチに話せば、献身的に世話をしてくれるだろうが、他の誰よりもミチには知られたくなかった。
それ以前からテルは、父方の従姉妹の高橋歌子を訪ねることが多く、すぐ近くには共同風呂もあったので、丸山町の彼女を頼ることに決めた。上山文英堂のある西南部町よりは手前だが、それでも一坂越えなければいけない丸山町までは、房枝を背負ったテルにはつらい道のりだったが、そんな弱音を吐いている場合ではなかった。
いつも公衆浴場の開くおひる少し前には着き、歌子が房枝を抱きかかえる風にしてお風呂に入れている間を服脱ぎ場で待ち、出てきた房枝の体を拭いて着物を着せては、連れだって家に戻って少しばかり雑談しては帰る日々が週に4日ほどあったという。
同じ病気にかかった宮本は治ったらしいから、彼女も早期に治療をしていればこれほど症状がひどくはならなかったかも知れないが、やはり明治生まれの古いタイプの女性としてはそうはできなかったのだろう。
いずれにしても、自分の病気をひた隠しにしながらも、テルの寄稿は続けられた。
不思議(ふしぎ)
私は不思議でたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀(ぎん)にひかつてゐることが。
私は不思議でたまらない、
青い桑(くは)の葉たべてゐる、
蠶(かひこ)が白くなることが。
私は不思議でたまらない、
たれもいぢらぬ夕顔(ゆふがお)が、
ひとりでぱらりと開(ひら)くのが。
私は不思議でたまらない、
誰にきいても笑つてて、
あたりまへだ、といふことが。 愛誦・昭和3年1月号
麥のくろんぼ
麥のくろんぼぬきませう、
金の穂波をかきわけて。
麥のくろんぼぬかなけりや、
ほかの穂麥にうつるから。
麥のくろんぼ焼きませう、
小徑(こみち)づたひに濱へ出て。
麥になれないくろんぼよ、
せめてけむりは空たかく。 愛誦・昭和3年2月号
私の丘
私の丘よ、さやうなら。
茅花(つばな)もぬいた、草笛を、
青い空みて吹きもした、
私の丘の青草よ、
みんな元氣で伸びとくれ。
私ひとりはゐなくても、
みなはまた來てあすぼうし、
ひとりはぐれたよわむしは、
ちやうど私のしたやうに、
わたしの丘と呼びもせう。
けれど、私にやいつまでも、
「私の丘」よ、さやうなら。 愛誦・3月号
薔薇の根
はじめて咲いた薔薇(ばら)は
紅(あか)い大きな薔薇だ。
土のなかで根がおもふ
「うれしいな、
うれしいな。」
二年めにや、三つ、
紅い大きな薔薇だ。
土のなかで根がおもふ
「また咲いた、
また咲いた。」
三年めにや、七つ、
紅い大きな薔薇だ。
土のなかで根がおもふ
「はじめのは
なぜ咲かぬ。」
東京の正祐は、来年早々からの文藝春秋社への就職が本決まりとなっているが、その間にも下関で刊行された燭台に映画評を寄稿している。そんな縁からテルにも新作童謡を出すことを勧めたが、もうすでに下関あたりの詩人の間では金子みすゞはビッグネームであり、テルの寄稿が大歓迎された様子もうかがえる。
雪
誰も知らない野の果(はて)で
青い小鳥が死にました
さむいさむいくれ方に
そのなきがらを埋(う)めよとて
お空は雪を撒(ま)きました
ふかくふかく音もなく
人は知らねど人里の
家もおともにたちました
しろいしろい被衣(かつぎ)着(き)て
やがてほのぼのあくる朝
空はみごとに晴れました
あをくあをくうつくしく
小(ち)さいきれいなたましひの
神さまのお國へゆくみちを
ひろくひろくあけようと 燭台・昭和3年9月号
小さな朝顔
あれは
いつかの
秋の日よ。
お馬車で通つた村はづれ、
草屋が一けん、竹の垣。
竹の垣根に空いろの、
小さな朝顔咲いてゐた。
──空をみてゐる瞳(め)のやうに。
あれは
いつかの
晴れた日よ。 愛誦・昭和3年10月号
七夕のころ
風が吹き吹き、笹藪の、
笹のささやきききました。
伸びても、伸びても、まだ遠い、
夜の星ぞら、天の川、
いつになつたら、届かうか。
風がふきふき外海の、
波のなげきをききました。
もう七夕もすんだのか、
天の川ともおわかれか。
さつき通つて行ったのは、
五色きれいなたんざくの
さめてさみしい、笹の枝。 愛誦・11月号
日の光
おてんとさまのお使ひが、
そろつて空をたちました。
みちで出逢つてみなみ風、
なにしにゆくの、とききました。
ひとりのお使ひいひました、
「ひかりの粉(こな)を地に撒(ま)くの、
みんながお仕事できるやう。」
ひとりはほんとに嬉しさう、
「私はお花を咲かせるの、
世界をたのしくするために。」
ひとりのお使ひやさしい子、
「私は清いたましひの、
のぼる反(そ)り橋かけるのよ。」
殘つたひとりは寂しさう、
「私は、影をつくるため、
やつぱり一しよにまゐります。」 燭台・11月号
病が進行して、いよいよ立ったり座ったりが不自由になった頃、それでも小さな机にかじりつく風にして正祐に手紙を書くテルの様子を見て、宮本が嫉妬した。宮本はもっと子供に向き合えという理由の元に、一切の手紙を書くことを禁じ、ついでのように童謡を作ることも禁じた。
彼にしてみれば、つい口走ってしまった程度のことだったろうが、ある意味で詩作が生きることと同義にもなっているテルの落胆は大きかった。
それ以後は、宮本がいない隙を盗むようにして机に向かい、手紙類はすべて以前に働いていた商品館宛てにしてもらうありさまだったが、そんなテルの救いが房枝の立ち振る舞いだった。
目も離せないほど活発になった房枝は、母親に甘える時は甘える一方で、上手にひとり遊びもできるいい子だった。新しい着物によろこび、長いたもとをひらつかせてクルクルと回って見せ、おじいちゃんおばあちゃんにもよく懐いていた。血はつながっていなくとも、自分のことをおじいちゃんと呼んで抱きついてくる孫が可愛くないはずもなく、松蔵が気前よく果物などを買ってあげた様子なども書き残されている。
妻とは疎遠になっていても、宮本もまた父親としての愛情をそそぎ、房枝もお父ちゃんと呼んでは抱きついていったことだろう。
けれどもやはり、一番頼りにして、何度でもまとわりついていったのはテルに向かってだった。もう2歳になったから、かなりしゃべるようにもなった房枝は、テルが読み聞かせるおはなしを吸収し、童話や数え唄を覚え、時にはすっとんきょうな思い違いなども披露して周囲をなごませたに違いない。
そんな楽しいような、憂鬱なような昭和3年が暮れようとしていた。
私個人的には、上にあげた「雪」と、自死後に発表された「四つ辻」が好きな唄です。本当に金子みすゞさんの童謡詩には、素敵なものがいっぱいあって、他にもたくさんの好きな作品があるのですが、あえてふたつ選ぶとなると、やはり上の作品でしょうか。
みなさんはいかがですか。
「わかれ童謡・追憶のみすゞ」は自作本のA5版200ページ、定価1000円です。某出版局の圧力に負けずに本にしたもので、それだけ愛着があるのですが、みすゞファンならずとも、日本人の心の琴線に触れるような部分もあるので、ぜひ手にとってお読みください。
金子みすゞ 金子みすゞさんのことを書きました。わかれ童謡(うた)追憶のみすゞ
金子みすゞさんが生前発表した100作品を網羅、母と娘のまなざしをも通して生涯を綴る。 金子みすゞの魅力を、力不足を知りつつも書いてみたいと思いました。 仙崎、下関、青海島など取材、著作権があるから勝手にはさせないぞと主張する某出版社の妨害にも負けずに、 A5版220ページの本ができました。 自費製本ですので、応援する意味を込めてご注文願えるとありがたいです。
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