補足5章 光明

 

 大正15年2月17日、二十三歳の金子テルは結婚式を挙げ、上山文英堂の二階に住まうこととなった。そこはせまい中庭を隔てて正祐の部屋と面していたから、テルは何かと気をつかったが、主人代理となった宮本はすべてのことに無遠慮に振る舞うようになって、正祐の気持ちを逆撫ですることも多かった。

 ひそかに想いを寄せていた人が、自分と血のつながった姉だったとわかってショックを受けた上に、ふたりのいる部屋の電気が早めに消えるなどのことが重なると、正祐は商売に対する情熱を失っていった。

 病気がちの松蔵に代わって店を取り仕切るようになった宮本は、大将といわれた松蔵に勝るとも劣らぬ商売上手だった。芸術家肌で潔癖な正祐は、そんな宮本にも反発せずにいられなかった。

 そもそもが松蔵の思惑から始まった政略結婚と思われているテルと宮本の結婚生活だが、彼女自身にこの暮らしをいやがっているふうは、少なくとも新婚の当初には見られない。むしろ母親の見立てのように、テルの方が宮本に傾いていたと考える方が自然で、だとすればさほど不孝な、誰かのためにいやいやながら承諾した話というわけでもないのだろう。

 田舎暮らしで、本の中に世界のすべてがあると夢想するような純情な娘が、ちょっと垢抜けた色男に恋慕するのは不思議ではなく、当時とすれば婚期を逸したとみられ勝ちな年齢のテルにとって、手放しではないにせよ、さほど不満のある結婚ではなかったはずだ。

 それならどうして、正祐には仕方なく結婚するかのように告げたのだろうか。それはテルが彼の気持ちをおもんぱかったからで、正祐に面と向かって、宮本が好きだから一緒になりますと言える立場になかったとは容易に想像できる。

 つまりいくら自分に好意を寄せてくれても、姉と弟だから結婚はできないと、結果的には長いこと焦らすような形になってから告白したテルは、正祐に対して負い目を感じていたからこそ、彼の気持ちを逆撫でするような言い方はできなかった。

 けれども結婚すること自体については、2月の始めに正祐がテルを追って仙崎を訪れ、ふたりで話し合って納得した事柄だった。だからこそ仏頂面ではあるものの、結婚式には正祐も出席して、滞りなく終わったのだが、その後の店の二階での奇妙な同居生活は危うさをはらんだものだった。

 そんな複雑な内情を抱えたテルの生活に、ひとすじの光明となったのが、師と仰ぐ西條八十のフランスからの帰国だった。

 かなり以前に送ってあったテルの作品は、在仏中に選ばれた特別募集童謡入選の1として、八十の帰国挨拶の載った童話4月号に掲載された。

(‥ただ今と云つて、ほんとなら玄関に学校の鞄を投げ出したいくらゐのところです。けれどもさうしたあどけない真似をするには頬髯がすこし濃くなり過ぎました。そこで畏まって「おかげで二年の旅を終へ無事帰朝いたしました。永い不在中は私の上にも亦、「童話」の上にも一方ならぬ御厚意にあづかりまして有難う存じました。また今後も宜しく。」と御挨拶申し上げます。)

露(つゆ)

誰にも言はずに、

おきませう。

朝のお庭の

すみつこで、

花がほろりと

泣いたこと。

もしも噂(うはさ)が

ひろがつて、

蜂のお耳へ

はいつたら、

わるいことでも

したやうに、

蜜をかへしに

ゆくでせう。        童話・大正15年4月号

 テルは夢に見ていたのとは随分と違う結婚生活に、小さくない幻滅を感じずにはいられなかったが、その一方で童謡作家としての資質を世間に認めさせずにはおかない素晴らしい作品を発表し続けていった。


もういいの

──もういいの。

──まあだだよ。

枇杷(びは)の木の下と、

   牡丹のかげで、

   かくれんぼの子供。

──もういいの。

──まあだだよ。

枇杷の木の枝と、

あおい實のなかで、

小鳥と、枇杷(びは)と。

──もういいの。

──まあだだよ。

青い空のそとと

黒い土の、なかで、

夏と、春と。           童話・大正15年5月号


夜(よる)

夜は、お山や、森の木や、

巣(す)にゐる鳥や、草の葉や、

あかい、かはいい花にまで、

黒いおねまき着せるけど、

私にだけは、出来ないの。

私のおねまき、まつ白よ、

そして、母さんが着せるのよ。        童話・6月号


ふうせん

ふうせん持つた子がそばにゐて、

私が持つてるやうでした。

ぴい、とどこぞで笛が鳴る、

まつりのあとの、裏どほり。

あかいふうせん、

晝の月、

春のお空にありました。

ふうせん持つた子が行つちやつて、

   すこしさびしくなりました。        童話・6月号


繭(まゆ)とお墓

蠶(かひこ)は繭(まゆ)に、

はいります、

きうくつさうな

あの繭に。

けれど、蠶は

うれしかろ、

蝶々になつて、

飛べるのよ。

人はお墓へ

はいります、

暗いさみしい

あの墓へ。

そして、いい子は

翅(はね)が生え、

天使になつて

飛べるのよ。         愛誦・昭和2年1月号


明るい方へ

明るい方へ

明るい方へ。

一つの葉でも

陽(ひ)の洩(も)るとこへ。

藪かげの草は。

明るい方へ

明るい方へ。

翅は焦(こ)げよと

灯のあるとこへ。

夜飛ぶ蟲は。

明るい方へ

明るい方へ。

一分もひろく

日の射すとこへ。

都會(まち)に住む子等は。         愛誦・昭和2年1月号


月と泥棒

十三人の泥棒が、

北の山から降りて來た。

町を荒らしてやらうとて、

黒い行列つゥくつた。

たつた一人のお月さま、

裏の山からあァがつた。

町を飾(かざ)つてやらうとて、

銀のヴェールを投げかけた。

黒い行列ァ銀になる、

銀の行列ァぞろぞろと、

銀のまちなかゆきぬける。

十三人の泥棒は、

お山のみちも忘れたし、

泥棒(どろぼ)のみちも忘れたし、

南のはてて、氣がつけば、

山はしらじら、どこやらで、

コケッコの、バカッコと鶏(とり)がなく。       愛誦・2月号


さみしい王女

つよい王子にすくはれて、

城へかへつた、おひめさま。

城はむかしの城だけど、

薔薇(ばら)もかはらず咲くけれど、

なぜかさみしいおひめさま、

けふもお空を眺めてた。

  (魔法(まはふ)つかいはこはいけど、

  あのはてしないあを空を、

  白くかがやく翅(はね)のべて、

  はるかに遠く旅してた、

  小鳥のころがなつかしい。)

街(まち)の上には花が飛び、

城に宴(うたげ)はまだつづく。

それもさみしいおひめさま、

ひとり日暮(ひぐれ)の花園で、

眞赤(まつか)な薔薇(ばら)は見も向かず、

お空ばかりを眺めてた。       愛誦・3月号


私は雲に

なりたいな。

ふわりふわりと

青空の

果(はて)から果を

みんなみて、

夜はお月さんと

鬼ごつこ。

それも飽きたら

雨になり

雷さんを

供につれ、

おうちの池へ

とびおりる。            愛誦・4月号


雛(ひな)まつり

雛のお節句來たけれど、

私はなんにも持たないの。

となりの雛はうつくしい、

けれどもあれはひとのもの。

私はちひさなお人形と、

ふたりでお菱(ひし)をたべませう。        愛誦・4月号

 童話誌上に掲載されたのと同じように、ほぼ毎月のように金子みすゞの童謡詩が愛誦に載ったが、この二者の間の明確な差違は、後者が職業作家の仕事としての扱いを受けていることだろう。

 つまりは西條八十が、テルに対して正式に寄稿を依頼し、原稿料も支払ったということであって、初期の「繭とお墓」に至っては、八十の詩と同じページに載るという好遇を受けている。

 そもそも八十は、童話誌でよきライバル関係にあった島田忠夫とともに、金子みすゞを弟子のように思っていた節がある。

 何誌もの選者を兼任し、童謡を書き詩を作り、あるいは渡仏記をエッセイのように連載する八十は多忙を極めていたに違いないが、童謡詩人としての金子みすゞの感性を大いに認めていたからこそ、わざわざ時間を作ってくれたのだろう。

 昭和2年の春、テルにとって最高の嬉しさとなったのが、かねて希望していた西條八十との面会が叶ったことだった。仙崎と下関以外は、対岸の門司か福岡の病院くらいしか行ったことのないテルにとって、東京に旅するなぞはとんでもないことであり、心の師と仰ぐ八十の方から下関で会うための時間を作ってくれたのは願ってもない幸運だった。


この後で、師と仰ぐ西條八十と逢うのだが、おさない房枝をおぶったテルは胸がいっぱいで、ほとんど何もしゃべらずに別れている。芥川龍之介の自死や、祖母の死などに直面して惑うテルは、不幸な結婚生活を送りながらも、それでも懸命に童謡詩を作っては投稿していたが、そんな彼女が病に冒されてしまう。


 

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金子みすゞ 金子みすゞさんのことを書きました。わかれ童謡(うた)追憶のみすゞ

金子みすゞさんが生前発表した100作品を網羅、母と娘のまなざしをも通して生涯を綴る。 金子みすゞの魅力を、力不足を知りつつも書いてみたいと思いました。 仙崎、下関、青海島など取材、著作権があるから勝手にはさせないぞと主張する某出版社の妨害にも負けずに、 A5版220ページの本ができました。 自費製本ですので、応援する意味を込めてご注文願えるとありがたいです。