大正12年の夏、二十歳の金子テルは小柄な体に着物姿、その上から事務服を着て、小さな本屋で落ち着かなかった。
いつもならば歩いて10分ほどの上山文英堂を出ると、西之端通りに面した商品館にある支店を開け、すぐに好きな本を読み始めるのだが、その日はとても読書どころではなかった。
やがて本店からリヤカーで届けられた新刊書を開いてみると、そこには自分の投稿した作品が載っていた。
お魚
海の魚(さかな)はかはいさう。
お米は人につくられる、
牛は牧場で飼(か)はれてる、
鯉もお池で麩(ふ)を貰ふ。
けれども、海のおさかなは、
なんにも世話にならないし、
いたづら一つしないのに、
かうして私に食(た)べられる。
ほんとに魚はかはいさう。 童話・大正12年9月号
打出(うちで)の小槌(こづち)
打出の小槌(こづち)貰(もら)うたら
私は何を出しませう。
羊羹(やうかん)、カステラ、甘納豆(あまなつと)、
姉さんとおんなじ腕時計。
まだまだそれよりまつ白な、
唄の上手(じやうず)な鸚鵡(あうむ)を出して、
赤い帽子(しやつぽ)の小人を出して、
毎日踊りを見ませうか。
いいえ、それよりおはなしの、
一寸法師がしたやうに、
背丈(せたけ)を出して一ぺんに
大人になれたらうれしいな。 童話・大正12年9月号
自分の作品が雑誌に載るだけでも感激なのに、この号では西條八十の好意的な選評まで掲載されていた。
「‥‥閨秀の童謡詩人が皆無の今日、この調子で努力して頂きたいとおもふ。」
テルのよろこびは大きかったが、そのよろこびは童話一誌のみでは終わらなかった。
おとむらひ
ふみがらの、おとむらひ、
鐘もならない、お供(とも)もゐない、
ほんにさみしいおとむらひ。
うす桃(もゝ)色(いろ)のなつかしさ、
憎(にく)い、大きな、状(じやう)ぶくろ、
涙(なみだ)ににじむだインクのあとも、
封(ふう)じこめた花(はな)びらも、
めらめらと、わけなく燃える、
焔(ほのほ)が文字になりもせで、
すぎた、日(ひ)のおもひ出(で)は、
ゆるやかに、いま
夕(ゆふ)ぐれの空(そら)へ立(た)ちのぼる。 婦人画報・9月号抒情小曲欄
この「おとむらひ」の中には、今まで生まれ育ってきた大津郡仙崎村には、もう自分の帰るべき場所がないという淋しさが込められていた。風光明媚な青海島に、鼻づらを突き合わすように伸びた仙崎を出ることになった事情を恨むでもなく、テルが火にくべる手紙やハガキは静かに燃えていった。
テルが働くことになった上山文英堂は、教科書から洋書までを手広く扱う大きな書店で、下関市内にも三つの支店を持ち、彼女がたったひとりで任されたのが西之端町の店だった。
雑誌類を広げる台がふたつ、書籍を並べてある本棚がふたつ、その中間の極めて狭いスペースに小さな机と腰掛けがあって、それがテルのお城のすべてだった。
仙崎とは比べものにならないほど開けている下関で新生活を送ることになったテルは、それまでの読んで夢想するだけだった文学少女時代から一歩突き抜けて、自作の童謡を投稿することによろこびを見出すようになっていった。
瀬戸(せと)の雨(あめ)
ふつたり、止んだり、小ぬか雨、
行つたり、来たり、渡し舟。
瀬戸で出逢(であ)つた潮(しほ)どうし、
「こんちは悪いお天氣で。」
「どちらへ」
「むかうの外海へ。」
「私はあちらよ。さやうなら。」
なかはくるくる渦(うづ)を巻く。
行つたり、来たり、渡し舟、
降つたり、止んだり、日が暮れる。 婦人倶楽部・11月号
手帳(てちやう)
しづかな朝の砂濱で、
ちひさな手帳見ィつけた。
緋繻子(ひじゆす)の表紙、金の文字、
なかはまつ白、あたらしい。
誰が落としていつたやら、
波にきいても波ざんざ、
みえるかぎりをさがしても、
砂には足のあともない。
きつと夜あけに飛んでゐた、
南へかへるつばくらが、
旅の日記をつけよとて、
購(か)うて落として行つたのよ。 婦人倶楽部・2月号
大正7年に鈴木三重吉が(……世間の小さな人たちのために、芸術として真価ある純麗な童話と童謡を創作する、最初の運動を起こしたい……)と雑誌赤い鳥を発行、翌8年には金の船が、さらに大正9年には童話が創刊されて、テルが投稿を始めた大正12年ころは、まさに子供のための童謡の全盛期を迎えていた。
今も歌い継がれる童謡の名曲は、そのほとんどがこの時期に作られている。
たとえば「赤い鳥小鳥」「あわて床屋」「アメフリ」「雨」「からたちの花」「揺籃のうた」は北原白秋が、「かなりや」「鞠と殿さま」「肩たたき」「風(クリスティナ・ロセッティ)」等は西條八十が、「靴が鳴る」「叱られて」「雀の学校」は清水かつらが、「七つの子」「青い目の人形」「黄金虫」「しゃぼん玉」「赤い靴」「雨降りお月さん」を野口雨情が、そして加藤まさおの「月の砂漠」、蕗谷紅児の「花嫁人形」などが作られ、まだラジオ放送が始まってもいない中、雑誌や新聞に音符付きで発表されては音楽会や学校、あるいは道に立って語り歌う演歌師などを通じて広まっていった。
テルが童謡作りを始めたのがこんな時代で、本屋を営んでいたせいで、最新の情報をいち早く入手できたテルや正祐はかなり恵まれた境遇にあったともいえる。
そして童話3月号には、またしてもテルの作った童謡が3点も掲載された。
金子みすゞ 金子みすゞさんのことを書きました。わかれ童謡(うた)追憶のみすゞ
金子みすゞさんが生前発表した100作品を網羅、母と娘のまなざしをも通して生涯を綴る。 金子みすゞの魅力を、力不足を知りつつも書いてみたいと思いました。 仙崎、下関、青海島など取材、著作権があるから勝手にはさせないぞと主張する某出版社の妨害にも負けずに、 A5版220ページの本ができました。 自費製本ですので、応援する意味を込めてご注文願えるとありがたいです。
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