追補2章 ふるさと仙崎


 金子テルは明治36年4月11日、山口県大津郡仙崎村に生まれた。父金子庄之助、母ミチ、二つ上の長男堅助、それに母方の祖母ウメの5人家族だった。

 父は数人の仲間と渡海船の仕事をしており、暮らし向きはかなり裕福だったらしいことが残された写真からうかがえる。

 祖母ウメ、母ミチともに熱心な浄土真宗の門徒で、朝に夕に仏壇の前に座ってお勤めをする姿が、子供だったテルにも多大な影響を与えていった。

 小さな漁村で仲むつまじく暮らす5人の生活に、もうひとつの小さな命が入ってきたのがテル2歳の時のことで、それが弟の正祐だった。まだ母親に甘えたい盛りのテルは、弟の誕生をよろこぶとともに、母をとられてしまったような複雑な心境になったに違いなく、その屈折した心情が後の詩作にも濃い影を落とすこととなる。

 ともあれこの年の9月には、一年半以上続いた日露戦争が終わったが、なまじ予想外の勝利を収めてしまったがために、それ以後も日本は海外への領土拡張政策をとって、諸外国とさまざまな軋轢を生むことにもなる。

 そんな風潮の最中、父庄之助が清国栄口にいくことになったのは、ミチの妹フジが嫁いでいる下関の上山文英堂店主の松蔵に強く請われたからだった。

 上山松蔵の経営する文英堂は本や教科書を手広く扱っていて、その規模は九州に及ぶばかりでなく、海を隔てた清国にもいくつかの支店を持つほどだった。当時の栄口支店を任せるだけの人材がなかったために、フジの義理の兄に当たる庄之助に白羽の矢が立ったという形だったが、これが新たな悲劇を生むことになる。

 欺瞞(ぎまん)に満ちた満州国成立をこころよく思っていない人も多い清国では、反日感情も高まっており、日本から送り込まれた兵士が多いので日本語で書かれた本や雑誌の需要は多かったが、それだけに危険も小さくはなかった。そんな異国の地で、テルの父は病気で亡くなった。暴漢に襲われたとの新聞報道もあって混乱したが、いずれにしても31歳の若さでの惜しまれる死だった。

 働き手を失ったテルの家には、上山文英堂から救いの手が差し伸べられて、大津郡ではただ一軒の本屋として金子文英堂が開かれることとなった。それだけならよかったのだが、まるで本屋を開かせるのと交換条件のように、次男の正祐が松蔵の養子として下関にもらわれていってしまった。以後はその事実を隠しておきたい松蔵の意向で、テルたちは長い間、正祐と逢うこともできなかった。

 テルがまだおさない頃に、家族がふたりも少なくなって淋しくなったが、それでも残された4人は仲むつまじく質素に暮らしていった。

 文章を書くことは得意なテルだったが、童謡はまったく勝手の違う分野だった。テーマを決め、言葉を紡ぎ、韻を踏むなどの作業の中で、テルが物足りなさを感じたのは、読んでもらう相手が具体的に思い浮かばないからだった。

 何となく作っている限りにおいては、何となく的な作品しかできなかった。誰のために童謡を作るのか考え抜いたとき、テルの頭に浮かんだのが親友の田辺豊々代だった。

 豊々代に贈るのであれば、かなり斬新な構想も必要だった。少女時代も女学校も同じように過ごした友達をびっくりさせるには、当時からすでに大都会であった下関のモダンさを詠むしかなかった。こうして記念すべき「障子」が、テル愛用の小さな文机の上で完成した。

 ほかにもいくつかの童謡をものにしたテルは、友情の証しとして豊々代に贈るための手書きの小曲集を作った。こはれたぴあのと題された小曲集には、著名な作家の童謡と詩が選ばれていたが、その巻頭を飾っただろうと思われる詩がある。

月夜(つきよ)の家(いへ)    北原白秋

壊(こは)れたピアノに、壊(こは)れ椅子(いす)、

誰(だアれ)が月夜(つきよ)に彈(ひ)いてゝか、

誰(だアれ)もゐもせず、音ばかり。

白(しろ)い木槿(むくげ)に、靑(あを)硝子(ガラス)、

母様(かアさま)もしかと來(き)て見(み)ても、

中(なか)には月(つき)のかげばかり。

ときどき光(ひか)る、眼(め)が二(ふた)つ、

黒(くろ)い女猫(めねこ)の眼(め)の玉(たま)か、

   それともピアノの金(きん)の鋲(びやう)。

壊(こは)れたピアノに、壊れ椅子、

誰(だァれ)が彈(ひ)くやら泣(な)くのやら、

部屋(へや)には月(つき)のかげばかり。

空には七色(なないろ)、月の暈(かさ)、

いつまで照(て)るやら、照らぬやら、

壊れたピアノの音(おと)ばかり。       大正9年 赤い鳥代表作集

 たった一冊きりの、手書きの小曲集の現物は見つかっていないが、有名作家のものとともに、おそらくテルが自作した童謡めいた作品も載っていたのではないだろうか。 

 たとえば「障子」や「月日貝」「まつりの頃」、あるいは「雀のかあさん」「濱の石」「雲の色」などは、投稿作として掲載された雑誌が見つかっていないので、この時に豊々代にプレゼントされたものだったかも知れない。

障子

お部屋の障子は、ビルディング。

しろいきれいな石づくり、

空まで届く十二階、

お部屋のかずは、四十八。

一つの部屋に蠅がゐて、

あとのお部屋はみんな空(から)。

四十七間(ま)の部屋部屋へ、

誰がはいつてくるのやら。

ひとつひらいたあの窓を、

どんな子供がのぞくやら。

──窓はいつだか、すねたとき、

  指でわたしがあけた窓。

ひとり日永にながめてりや、

そこからみえる青空が、

ちらりと影になりました。


月日貝

西のお空は

あかね色、

あかいお日さま

海のなか。

東のお空

眞珠(しんじゆ)いろ、

まるい、黄色い

お月さま。

日ぐれに落ちた

お日さまと、

夜あけに沈む

お月さま、

逢(あ)うたは深い

海の底。

ある日

漁師(れふし)にひろはれた、

赤とうす黄の

  月日貝。


まつりの頃

山車(くるま)の小屋が建(た)ちました、

濱にも、氷屋できました。

お背戸の桃があかくなり、

蓮田の蛙(かへろ)もうれしさう。

試驗もきのふですみました、

うすいリボンも購(か)ひました。

もうお祭がくるばかり、

もうお祭がくるばかり。

雀のかあさん

子供が

小雀

つかまへた。

その子の

かあさん

笑つてた。

雀の

かあさん

それみてた。

お屋根で

鳴かずに

それ見てた。


濱の石

濱辺の石は玉のやう、

みんなまるくてすべつこい。

濱辺の石は飛(と)び魚か、

投げればさつと波を切る。

濱辺の石は唄うたひ、

波といちにち唄つてる。

ひとつびとつの濱の石、

みんなかはいい石だけど、

濱辺の石は偉(えら)い石、

皆(みんな)して海をかかへてる。

雲の色

夕やけ

きえた

雲のいろ、

けんくわ

してきて

ひとりゐて、

みてゐりや、

つッと

泣けてくる。

 大都会・下関から大きな影響を受けたと思われる、ビルディングなどの語句の入った「障子」ができあがった時、それに続けて様々な情景を思い通りに作品に詠み込んだ時、テルは初めて童謡作りの楽しさに目覚めた。

ところでこの本は、自分でプリントから製本までやった自作本です。一度に十二冊くらいづつしかできないから、本屋さんには配本していません。けれども書籍コードはあるので、注文してもらえればお近くの本屋さんに送ることはできます。それ以外にも直接注文してもらえれば、すぐに代金後払いで送りますので、ファクス042-537-6724、メールinbi@ae.auone-net.jpにご連絡ください。

川合

0コメント

  • 1000 / 1000

金子みすゞ 金子みすゞさんのことを書きました。わかれ童謡(うた)追憶のみすゞ

金子みすゞさんが生前発表した100作品を網羅、母と娘のまなざしをも通して生涯を綴る。 金子みすゞの魅力を、力不足を知りつつも書いてみたいと思いました。 仙崎、下関、青海島など取材、著作権があるから勝手にはさせないぞと主張する某出版社の妨害にも負けずに、 A5版220ページの本ができました。 自費製本ですので、応援する意味を込めてご注文願えるとありがたいです。